前回の山田五郎さんのクロノグラフのトークショーに引き続き、その翌週に開催されたドイツの時計のトークショーに参加しました。今回は同氏の講演内容を深掘りして、さらに独自の調査も合わせて記載させていただきます。

●カッコー時計の数々(東京日本橋横山町の“森の時計”にて)
この地域を代表する時計ブランドが1861年にシュランベルクという街でエアハルト・ユンハンスが創業したユンハンスです。同社は絶大な人気を誇り、1900年初頭には世界最大の置き時計ブランドとなり、シュランベルクの街がユンハンスの企業城下町となっていました。ユンハンスのスケールを大きさは、100周年記念の頃に6,000人の従業員が毎日2万個の置き時計や腕時計を作っていたことに表れています。今でも、長い階段を上がった丘の上に、もの凄く大きな工場があり、産業遺産にもなっています。
腕時計では、バウハウスという1919年にドイツで設立された世界初のデザインの総合教育学校出身のスイスのデザイナーであるマックスビルがデザインした腕時計が有名です。バウハウスのモットーである「形態は機能に従う (Form follows function)」を具現化しているとてもシンプルな時計です。また、1972年のミュンヘン・オリンピックの公式時計にも選ばれ、電波時計の最初の実用化にも貢献しました。
なお、シュヴァルツバルトではシュランベルクの他に、プフォルツハイムという地域も時計産業の中心地になっています。ここには小規模ですが、最近復活したブランドがあります。エザウォッチは、廃業となってから実に37年後の2016年にオランダの時計メーカーに買収され、プフォルツハイムに戻ってきました。
他に、西の時計ブランドとしては、ハンハルト、ストーヴァがあります。昔日本の三大時計メーカーでリコーに吸収されたタカノは、今は亡きラコのコピー時計を作っていました。このように西の時計はクロックを起源とし、今やウォッチにおいても時計産業の中心地となりました。
西の時計産業の特徴は二つあります。
一つは、第二次世界大戦において軍用時計製造という重要な任を担っていたため、軍用時計のレプリカが多いことです。大戦中、ラコとストーヴァは、ランゲ・アンド・ゾーネとともに、ドイツ軍のサプライヤーとなり、空軍向けの通称Bウオッチを製造していました。ハンハルトが開発したドイツ初の腕時計型クロノグラフは空軍に採用されました。ユンハンスは、爆弾のタイムスイッチである時限信管の製造を同社全体の製造割合の9割とし、当時同社の基幹産業としていたこともありました。
もう一つはその多くがスイスのムーブメントを使っていることです。
なぜならば、地理的に近いということと、昔あったECC(現EU)という貿易圏にスイスが入らなかったことが理由で、スイスがECC諸国にムーブメントを輸出するためにドイツを経由したからです。スイスは、シュヴァルツバルトにあるメーカーに時計を作らせるという手法で、ドイツ西側と密接につながっていたのです。それもあって、今でもプフォルツハイムの時計ブランドはスイスのムーブメントを使っているものが多いのです。
●ドイツ時計の二つの中心地(東編〜戦前)
もう一つの時計産業の中心地は東の端にあります。
ポーランドとチェコに隣接するザクセン州にあるグラスヒュッテという街です。グラスヒュッテの時計ブランドには、よくGLASHÜTTE I/SAと書いてあり、I/SA はin Sachsenを示しています。これはザクセン州のグラスヒュッテということで、他にもグラスヒュッテという名前の土地があるということを意味しています。
グラスヒュッテは地名ですが、直訳するとガラス小屋という意味です。今でこそ時計産業の中心地として名前が知られていますが、東ドイツ時代にこの街があることを知っていた人は誰もいないほど無名な街でした。したがいまして、当時、日本のオークションのカタログでグラスヒュッテを“ガラス風防”と訳し時計の名前としてしまうこともありました。このグラスヒュッテは近くにあるドレスデンを首都とするザクセン王国という独立した国にありました。1871年にドイツは統一されましたが、ザクセン王国は第一次世界大戦が終わる1918年までドイツ帝国に入らないほど独立心が高い州でした。
そのザクセン王国のドレスデンで1815年に生まれたのが、フェルディナント・アドルフ・ランゲです。彼はドレスデンにいたザクセン王国の国王付き時計士のヨハン・クリスチャン・フリードリッヒ・グートケスのもとで修行した後、イギリスやフランスで遍歴修行していました。遍歴修行とはドイツの伝統的な修行制度で、若い職人が故郷を離れ、世界を転々としながら各地の親方のもとで腕を磨いて経験を積むものです。パリでは、ブレゲの弟子にあたるヨゼフ・タデウス・ヴィンネルが営むヨーロッパ屈指の時計工房でも修行をしていました。

ランゲ1のいくつかの特徴をあげていきます。
まずはグラスヒュッテ製時計の目印といわれている4分の3地板です。地板というのは時計の歯車などの部品を留める板です。土台になる地板に歯車などのたくさんの部品を乗せていきます。そして、地板と同じ大きさの丸い板(通称:受け)をその上から乗せて小さなネジやくさびで留め固定していました。
そうすると、歯車などの部品を調整するには、小さなネジやくさびで留められた板を外して、終わったらまたかぶせて留め直さないとならないので非常に大変な作業でした。この状況を打開するために、最もいかれる確率が高い時計のテンポを決めるテンプだけを外に出すようにしました。この部分が4分の1なので、4分の3地板といわれるようになり、テンプだけは板(=受け)を外さなくても調整できるようになりました。
しかしながら、ランゲ1が出たころ、他の時計は18世紀にブレゲの師匠といわれるレピーヌが考案した棒状の板(ブリッジ)を使っていました。つまり、丸い板ではなく棒状の板(ブリッジ)で部品を一個一個上から留めることで、棒状の板(ブリッジ)を外すことなく歯車などの部品を調整できるメンテナンスに優れる仕組みが既に一般的になっていました。そのような状況にも関わらず、ランゲ1はわざわざ4分の3地板を復活させました。
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